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ウォークマン®

イノベーションに至る経緯

 世界に大きなインパクトを与えたウォークマン1号機は、当時ソニーの名誉会長であった井深の発案から、多くの人物による関与・挑戦の結果誕生した。本章においては、彼らの取組の経緯をそもそもの発端から、実際の取組、市場化という3つの段階に分けて紹介することにしよう。そして、次章において技術の概要について紹介する。

(1)ウォークマンのアイデアの誕生

 ウォークマンのアイデアは、当時名誉会長であった井深から生まれた。1978年当時、世間にステレオ再生のテープレコーダーは普及していたものの、手軽に持って歩ける小型・軽量のものは、モノラルタイプのものに限られていた。

 当時、井深は海外出張の際に教科書サイズの小型ステレオ録音機である「TC-D5」を愛用し、ヘッドホンを使用してステレオ音楽を聴くのを好んでいた。しかしながら、携帯用としてはもっと軽いものが欲しいと感じていた。同じ頃、ソニーは手のひらに乗るくらい小型のモノラルタイプのレコーダーのプレスマン「TCM-100」を発売した。井深は、当時副社長であった大賀典雄(以下「大賀」と呼ぶ)に、プレスマンに再生専用でよいからステレオ回路を入れたものを作ってくれないかと依頼した。大賀はテープレコーダー事業部長の大曽根幸三(以下「大曽根」と呼ぶ)に連絡し、井深の考えを伝えたところ、大曽根は了承した。彼はさっそく部下に命じて、プレスマンから録音機能を取り去りステレオ再生が可能なように改造した。その際に音質を大きく向上させたという。

 1978年10月頃に井深が大曽根たちの仕事場を訪れ、改造版プレスマンを試したところその音質に大変満足し、海外出張にも持っていくことにした。井深はこの改造版プレスマンをすっかり気に入り、当時会長であった盛田昭夫(以下「盛田」と呼ぶ)にも勧めた。すると、盛田もこの改造版プレスマンを大変気に入り、ビジネス化の検討を始めた。

(2)ウォークマンの価格は3万3000円

 1979年2月、盛田は本社に電気、メカ設計のエンジニア、企画担当者、宣伝、デザイン担当者など関係者を招集した。そこで、盛田は「この製品は、1日中音楽を楽しんでいたい若者の願いを満たすものだ。音楽を外へ持って出られるんだよ。録音機能はいらない。ヘッドホン付き再生専用機として商品化すれば売れるはずだ1」、「若者、つまり学生がターゲットである以上、夏休み前の発売で、価格はプレスマンと 同じくらい、4万円を切るつもりでいこうじゃないか2」と言った。

 当初、関係者たちはその発売日と価格に難色を示した。しかしながら、その後検討した結果、無理を承知で3万5000円の価格でやってみようと話がまとまりかけた3。盛田にこの話を持っていくと「今年はソニーの創立33周年だ。価格も3万3000円でいこう4」と返答がなされた。この一言で、メンバーはウォークマンの夏休み前の発売に向けて動き出すこととなった。

 開発に当たり、大曽根は何よりも信頼性を重視した。初めて世に出す製品に故障が多ければ、そのコンセプト自体が否定される恐れがあったためである。加えて、時間も限られていた。そこで、第1号機のメカには、すでに50万台の生産実績のあるプレスマンのメカをそのまま流用した5。金型もプレスマンのものを用いた。本体に加えて、ウォークマンに取り付けるためのヘッドホンも重要であった。当時技術研究所において、超軽量・小型ヘッドホンとして開発されていた「H・AIR(ヘアー)」がほぼ完成していたことから、これをウォークマンに付属させることになった。

 このように、ウォークマンの開発には余り技術的心配は存在しなかった。その代わり、商品コンセプトをどのように売り込んでいけばよいのかに注力がなされた。まず、名前である。宣伝部の若手スタッフたちは名前を決めるために知恵を絞った。その結果、ウォークマンという名称が生まれた。このアイデアには、「こんな変な和製英語はとんでもない」と社内的には反対もあった6。しかしながら、盛田は彼らのアイデアを支持した。社内でも実際に音を聞いてみると、欲しいと感じる社員も存在したという。

 しかしながら、この再生機能しか付いていないウォークマンには販売部門をはじめ、社内での否定的な意見も多かった。販売店の担当者が特約店に説明に行っても、録音機能がないことに疑問を呈されることもあった。この逆風の中でも、井深や盛田の支持のもとウォークマンの開発・生産・発表準備は進んでいき、最初の生産台数は3万台に設定された7。そして、発表日は6月22日、発売日は7月1日と決定された。

盛田、大曽根

盛田、大曽根

画像提供:ソニー

(3)ウォークマン -日本から世界へ

 ウォークマンの発表会は1979年6月22日、代々木公園にて行われた。東京・銀座のソニービルからバスで移動する間、雑誌記者にウォークマンが手渡された。代々木公園に到着後、彼らがヘッドホンをつけると音楽とともにウォークマン1号機「TPS-L2」の商品説明がステレオで流れた。そして、彼らの目の前でウォークマンとプリントされたTシャツを着た宣伝部のスタッフやアルバイトによるデモンストレーションが始まった。記者たちは、この新製品発表会に驚きを受けた。

 それにも関わらず、マスコミの反応は当初冷やかであった。7月1日には、予定どおり発売されたものの、1カ月で3000台ほどしか売れなかった。しかしながら、そのような苦境の中でも、宣伝部や国内営業部隊、大曽根部隊のスタッフたちは諦めなかった。ウォークマンを人々の目に触れさせるため草の根の活動を行ったり、影響力のありそうな有名人に実際に使ってもらったりした。大々的なテレビCMを展開することはなかったが、このような工夫をこらした広告・宣伝活動により、評判は口コミで広がっていった8

 その結果、初回生産の3万台は8月いっぱいで売り切れとなった。生産が追い付かず品切れ店も続出した。このような状態が6カ月ほど続いた。新たな音楽を楽しむスタイルは、若者の間に浸透していった。このようにして、井深と盛田が当初描いたコンセプトは日本において受け入られていったのである。

 日本での成功を受け、半年遅れでウォークマンを海外でも売り出すことになった。その際に、ウォークマンという名称に対し、社内の英語通が待ったをかけた。その結果、米国では「サウンドアバウト」、英国では「ストウアウェイ」、オーストラリアでは「フリースタイル」という3つの名称が用いられた。

 しかしながら、盛田が実際に欧州に行くと、「ウォークマン」という名前の方が先に知れ渡っているということが明らかとなった。そこで、「名前が少しくらい妙でも、自分たちが最初に作ったもので売り込もう9」と考え、世界中ウォークマンという名称に統一することを決断した。各地域では、多少の抵抗はあったものの、この和製英語「ウォークマン」は、ヘッドホンステレオの代名詞として定着していった。そして、英国の代表的な辞書である『オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー』に掲載され、日本でも『広辞苑』に掲載されるようになった。

 その後もウォークマンは、「WM-2」など後継モデルを続々と出していき、ヘッドホンステレオ市場という新たな市場を創出するに至った。その生産台数は第1号機発売から10年(1989年6月)で累計5000万台を突破、13年間で累計1億台を達成したという10。そして、2009年度においてはカセット型のウォークマンは2億2000万台を売り上げるに至ったのである11


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