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インスタントラーメン

イノベーションに至る経緯

 米国ニューヨークタイムズ紙は、2007年1月27日の社説において、インスタントラーメンのイノベーターである安藤に対し、「インスタントラーメンの発明により、安藤氏は人類の進歩の殿堂において、永遠の居場所を占めた5」と最大級の賛辞を送っている。また、同紙では、インスタントラーメンという市場が安藤という一人のイノベーターにより開拓されたことに驚嘆の意を示している。そこで、本節では、安藤の半生を振り返りながら、最初の「インスタントラーメン」である「チキンラーメン」の開発と市場化の過程について概観していきたい。

(1) インスタントラーメン開発の契機

 安藤は、1910年台湾・台南県で生まれた。22歳の時にメリヤス製品の販売事業を始めて以降、実業家としての歩みを進め、蚕糸、幻灯機製造、軍用機発動機(エンジン)部品製造など、数々の事業を手掛けていった。しかし、1945年3月13日の大阪大空襲により、全ての工場・事務所を失ったため、戦後、一からの事業再スタートを切ることを余儀なくされる。

 空襲の爪痕が深く残り、飢餓状態の人々があふれ、また、餓死者が道端に放置されていることも珍しくなかった大阪の町並みを見る中で、安藤は改めて「食」の重要性を認識することとなる。「衣食住というが、食が無ければ衣も住も、芸術も文化もあったものではない6」。なお、後に安藤が創業する日清食品が「食足世平(食足りて世は平らか)」を企業理念として掲げるのは、この原体験が基となっている。そこで、食に関連する事業として、1946年、大阪府泉大津市にて旧造兵廠の払下げを基に、製塩事業をスタートした。しかし、安藤の豊かな資産に目を付けたGHQに脱税容疑で逮捕され、2年もの間法廷闘争を繰り広げることとなった。

 1948年、事業の基盤として泉大津市に中交総社を設立した。これが、1949年にサンシー殖産(大阪府北区)へと商号変更され、数年の休眠を経て1958年、日清食品設立の母体となった。

 しかし、この後も安藤の受難は続く。懇願されて理事長に就任した信用組合が1957年に破綻すると、負債の補填のために個人資産を全て失い、文字どおり「無一文」となった。ここから再起を期して、長年、胸に温めていた、「食」に関連する事業、特に即席性の高いラーメンの開発に取り掛かった。

 数ある「食」に関連する事業から、特にインスタントラーメンにこだわった理由には、二点ある。第一が、戦後間もない大阪の闇市の光景が脳裏に残っていたからである。冬の寒い夜、大阪の闇市を通りかかると、ラーメンの屋台の前に多くの人々が並んでいた。こうした光景は、ラーメンの潜在的な需要が暗示されているように感じられたという。第二が、「粉食奨励」に関して、厚生省の課長と議論した経験である。昭和20年代の食料不足の時代、政府は米国から援助された余剰小麦を用いてパンやビスケットなどの「粉食」を奨励していた。こうした動きに際し、安藤は、同じ小麦を使うなら日本人が好む麺類を奨励するべきである、と提案した。しかし、当時、麺類の量産技術及び流通ルートが確立していなかったため、麺食の奨励は困難であった。このため、厚生省の担当官は、こうした麺類の現状を説明した後、安藤に対し、自らが研究し、麺類の量産を事業化し、麺食の普及に貢献してみてはどうかと奨めたという。安藤は、麺類の製造に関する深い知識を持っていなかったため、すぐに事業化を試みることはなかったが、麺食の普及に深い関心を寄せることとなる。

 こうした経緯で、安藤は無一文からインスタントラーメンの開発に取り組み始めた。

図1 安藤百福 肖像

図1 安藤百福 肖像

画像提供:日清食品ホールディングス

(2) 「チキンラーメン」の開発

 1957年、安藤はインスタントラーメンの開発に着手した。これまで麺食関連の事業経験が無かったため、全くの手探りからのスタートであった。自宅の庭に建てた10平方メートルほどの小屋を研究室として、朝5時から夜中の1時、2時まで研究に没頭した。開発に当たって掲げた目標は5つあった。第一は、美味しくて飽きがこない味にする、第二が家庭の台所に常備できる保存性のあるものにする、第三は調理に手間がかからないものにする、第四は値段を安くする、第五は安全で衛生的なものにするであった。

 まず、「美味しくて飽きがこない味にする」という目標を達成するため、鶏で出汁を取ったスープを開発した。スープの味をチキンに決定したのは、鶏肉が苦手な安藤の息子でも、鶏で出汁を取ったラーメンは喜んで食べたからだという。しかし、偶然決まったチキン味のスープは、理に叶ったものであった。なぜならば、チキンを食べない国は世界中どこにもなく、後に「チキンラーメン」を世界中に販売する際、文化・宗教的禁忌と衝突せずに済んだからである。また、鶏のスープは栄養価を高めることにも寄与している。開発当時の「チキンラーメン」の着味は、地鶏を丸ごと圧力鍋で煮詰めて取ったスープが使われており、コラーゲンなどの栄養価を多分に含んでいた。このため、後に「チキンラーメン」は厚生省から「特殊栄養食品」の認可を受け、栄養食品としても受容されていった。

 次に、調理の簡単性と保存性の高さという目標を達成するため、味の染みた「着味めん」の開発に取り掛かった。着味麺を長期的に保存し、素早く戻すには、麺を乾燥させることが必要であったが、既存の乾燥法は上手くいかなかった。こうした問題を解決したのが、油で揚げることで乾燥させる、「瞬間油熱乾燥法」であった。「瞬間油熱乾燥法」の詳細は次節にて解説する。

発売当時の「チキンラーメン」

発売当時の「チキンラーメン」

画像提供:日清食品ホールディングス

 翌1958年にはインスタントラーメンの開発がほとんど完成し、試作の段階まできていた。当時、安藤は48歳であった。開発した新商品は、鶏のスープを用いていたことから「チキンラーメン」と名付けられた。市場性を確かめるため、大阪の阪急百貨店にて試食販売をすると、集まった主婦層に受け、持参した500食はあっという間に完売したという。ここで、安藤は顧客の反応を観察しながら、「この商品は売れる」と確信した。

 また、安藤は、日本での市場性が定かでない発売最初期から「チキンラーメン」の輸出を試みている。輸出は貿易会社に勤める知人を介して行われた。サンプルを米国に送ると反応は早く、500ケースの注文があったという。この時、安藤は「食べ物には国境が無く、この商品は将来には世界的な食品になるかもしれない」とかすかな予感を抱いた。

(3) 新市場の開拓に成功

 1958年、大阪府東淀川区に大量生産に向けたテストプラントを設立した。当時の日産生産量は1200ケースであった。試食販売では好調であった「チキンラーメン」だが、食品問屋の反応は冷たかった。その理由は、価格の高さであった。うどん玉が6円の時代に、35円もするインスタントラーメンは食品問屋の目に魅力的な製品に映らなかったのである。しかし、最終消費者はインスタントラーメンの価値を評価していた。「チキンラーメン」が欲しいという消費者の要望が小売店へ届き、問屋への注文が殺到したのである。

 こうした急速な需要の拡大に既存の生産設備では対応できず、生産規模の拡大と量産効果を期待して、1959年、大阪府高槻市に突貫工事で本格的な量産工場を立ち上げた。完成を急いだ安藤は、外壁を乾燥させるのにバーナーを使って工期を早めたという。また、全国的な流通システムを確立する目的で、三菱商事、東京食品、伊藤忠商事の3社と特約代理店契約を結んだ。この結果、3社の特約代理店の下に全国3000社もの特約卸店が位置する、日清食品製品の販売を支える強力な流通組織を構築することができた。

 こうして日清食品の「チキンラーメン」は日本全国に普及していった。1950年代から1960年代の急激な社会の変化は、インスタントラーメン普及の追い風となった。折からの高度成長経済への移行は、大量生産、大量販売、そして大量宣伝を可能とする条件を整えつつあった。販売面では、スーパーマーケットの登場があった。「チキンラーメン」が発売された1958年、神戸・三宮で「主婦の店ダイエー」がオープンした。1950年代終盤、当時のダイエーの特売商品は「チキンラーメン」と卵であった事からも、スーパーマーケットの隆盛がインスタントラーメン市場の拡大に寄与したことがうかがえる。宣伝面では、テレビコマーシャルの登場である。1953年、民放のテレビ放送が始まると、日清食品は、テレビコマーシャルという新たな宣伝方法を活用した。日清食品は、数々のテレビ番組のスポンサーとなることで、消費者の認知を高めていくことができた。そして、「インスタント」が流行語になるほど人々の生活様式に変化が生じていた。チキンラーメンの発売から2年後、インスタントコーヒーが発売された。急速な経済成長に伴い、人々は生活を謳歌するのに忙しく、食事に簡便性を求めるようになったのである。

 「チキンラーメン」の成功により、日清食品の売上げは順調に伸び、5年目には年間売上43億円に達した。1963年には、東京、大阪両証券取引所の2部に上場している。

ダイエーでの特売

ダイエーでの特売

画像提供:日清食品ホールディングス

(4) その後の「チキンラーメン」

 本項では、「チキンラーメン」の市場開拓に成功した後、1960年代の日清食品の歩みを簡単に紹介する。「チキンラーメン」の成功により、即席麺業界への新規参入が雨後の筍のごとく相次いだ。もちろん、独自の製品を提供する企業も多かったが、中には「チキンラーメン」を偽装し、粗悪品を販売する業者も存在したという。こうした偽装や品質問題を契機として、日清食品は全製品に製造年月日を表示することにした。さらに、即席麺の品質の高さを担保するため、「即席めん類の日本農林規格」を施行するよう監督官庁の農林省(当時)に働きかけも行った。

 また1966年、世界に即席めんを拡大するためのヒントを見つけに、安藤自ら欧米へ視察旅行に出かけた際、米国で現地スーパーマーケットのバイヤーが、「チキンラーメン」を2つに割って紙コップに入れ、フォークで食べる姿を見て、「カップ麺」の発想を得た。すなわち、即席麺を食器として利用できる容器に入れた状態で販売することで、お湯を入れるだけでそのまま食べられるようにする、というものである。

「カップ麺」のヒントを得た米国視察

「カップ麺」のヒントを得た米国視察

画像提供:日清食品ホールディングス

開発当時の安藤百福

開発当時の安藤百福

画像提供:日清食品ホールディングス

 こうした着想をベースに、1971年、カップ型の容器に即席麺を入れた新商品、「カップヌードル」が発売された。しかし、即席麺が25円で安売りされている時代に100円という高価な価格設定であったため、販売に協力的な問屋もおらず、発売当初は苦戦を強いられた。「カップヌードル」の需要が一気に爆発したのは、意外な事件がきっかけであった。それは、1972年2月の連合赤軍による浅間山荘事件である。浅間山荘事件のテレビ中継の中で、厳寒の中、山荘を包囲する機動隊員が湯気の上がる「カップヌードル」を食べている姿が何度も大写しされた。当時、浅間山荘事件が世間に与えたインパクトは大きく、犯人逮捕を挟む2月28日、午後6時から7時のテレビ中継の視聴率は66.5%に達した。この浅間山荘事件の中継をきっかけに視聴者からの問い合わせが殺到し、「カップヌードル」は大ブームを巻き起こした。

 「カップヌードル」は、1973年には米国にて「Cup O' Noodles」のブランド名で発売され、その後、世界の即席麺市場を開拓する先駆的な商品となった。お湯を注げばいつでもどこでも食べることができるカップヌードルは多彩な食習慣を越え、世界中で受け入れられている。2013年3月現在、「カップヌードル」は世界80カ国、累計330億食以上販売されており、日本発のグローバル・ブランドとして成長したといえる。

米国では「Cup O' Noodles」の名で販売

米国では「Cup O' Noodles」の名で販売

画像提供:日清食品ホールディングス


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