公益社団法人発明協会

高度経済成長期

電子式卓上計算機

イノベーションに至る経緯

 世界初の電卓は、1962年に英国Bell Punch社から発売されたAnita Mk8であるといわれている。この計算機は演算用の歯車を真空管に置き換えたもので静かで速度が速かったことから注目されたが、その大きさは376(幅)×450(奥行)×255(高さ)ミリ、重量13.9kgといまだハンドヘルドと呼ぶには程遠かった。

 今日の小型軽量低価格の電卓があるのは、1960年代から日本で本格化した激しい電卓開発競争の賜物である。大企業から中小企業まで数多くの電機メーカーが電卓開発に乗り出したが、ここではシャープとカシオを中心に、日本における電卓のイノベーションの経緯について見ていく。

(1) シャープの取組

 日本が高度経済成長期に入り始めた1950年代、シャープは、「組立てだけのアセンブリーメーカーのままでは、今後の将来はない」との危機感を抱いていた。経営トップは若手技術陣に対し、「今後の成長が予想され、他社の後追いではなく、当社が競争力を持てる分野は何か」を問う中で、半導体、コンピュータ、マイクロウェーブ、超音波といった分野が候補に挙がった。

 1960年9月、同社は20代半ばの社員を中心に約20人のメンバーを集め、新分野研究チームとして半導体研究室と回路研究室を発足させた。回路研究室の計算機グループでは、コンピュータ技術を基礎から学ぶため、当時、計算機理論の権威と言われていた大阪大学工学部の尾崎弘研究室や喜多村善一研究室に通い、新分野の基礎研究に努めることとした。

 この基礎研究の成果は、1962年7月から9月にかけて小規模の実験用電子式コンピュータのHAYAC-1とリレー計算機を用いた伝票発行機CTS-1となって結実した。

 しかし、シャープがコンピュータ分野の研究に重きを置くことには困難があった。既に、コンピュータ開発は、通商産業省(当時)の国策として大手6社の電機メーカーが指定されていた。また、当時のシャープのビジネスモデルの観点からも難があった。同社は小売店を通じた大量販売型のビジネスモデルを取っていたため、販売台数が限られ、その上ソフトウエアの開発が必要な大型コンピュータの商品化にはなじまないものがあった。こうした事情からコンピュータ産業への参入は断念し、得意とする「量産型商品」でコンピュータ技術を活用することとした。研究テーマは伝票発行機、キャッシュレジスター、計算機の3つに絞られることとなった。

 計算機開発のプロジェクトチームに課された目標は、一般事務用で誰でも使えるもので、重さ約20㎏、価格は約50万円というものであった。

 最初に出来上がった電子式卓上計算機の試作機は、回路基板を床に並べると四畳半ほどにもなり、見積価格は150万円以上と目標には遠く及ばなかった。目標まで価格を抑える方策として、トランジスタ数を減らすこととし、仕組みを変更するとともに安価なラジオ用のゲルマニウムトランジスタを採用した。また、品質の安定を図るために、高温化でのエージング(安定化のための慣らし運転)、使用部品の選別、材料の研究など自社内での研究を推進した。

 こうして生み出されたのが、1964年3月に発表されたコンペットCS-10Aである。これは、世界初のオールトランジスタによる電子式卓上計算機であり、重さは25kgで価格は53万5000円と、乗用車並みに高価なものであった。

 シャープが発表した電卓の第2号機はCS-20Aである。1965年に発表された同機は、シリコントランジスタを採用し、テンキー式となった点に特徴があり、重さは16kgで価格は37万9000円であった。

CS-20A(1965年)

CS-20A(1965年)

画像提供:シャープ

 このCS-20Aの発売とともにシャープでは、「八百屋の奥さんにも使ってもらえるような、電子ソロバンを目指す」というスローガンが掲げられ、その目標達成を目指してICの採用が検討されるようになった。

  1966年には、28個のバイポーラICを使用した世界初のIC電卓CS-31Aの開発を成功させた。後にバイポーラIC需要の70%以上を電卓用が占め、電卓は日本の半導体産業を立ち上げる原動力となった。

 その後も「安くて、軽くて、小さい」電卓への追求は続いた。集積度が高く、消費電力がより少ないMOS IC(Metal Oxide Semiconductor IC:金属酸化膜半導体電界効果トランジスタ集積回路)を用いた電卓開発が行われ1967年にこれを利用した電卓CS-16Aが発売された。価格は23万円、重さは4kgにまで小型軽量低価格化していた。

 この頃になると、半導体分野の技術革新は目覚ましくICより更に集積度を上げたLSIが登場し始めていた。シャープはこれによる電卓の小型化を進めることとした。しかし、当時の国内の半導体メーカーでは、LSIの歩留まり率が安定していなかったことから、後に「電卓のドン」あるいは「電卓の父」と呼ばれることになる佐々木正を米国に派遣し、電卓用半導体の開発を交渉させた。電卓需要に感心の薄かった米国半導体業界との交渉はことごとく難航した。しかし、最後に米ノースアメリカンロックウェル社が応じ、同社製のMOS LSIを採用したマイクロコンペットQT-8Dを1969年に発売することとなった。同機は手のひらサイズにまで小型軽量化され、価格も10万円を割った。

CS-16A(1967年) / QT-8D(1969年)

CS-16A(1967年) / QT-8D(1969年)

画像提供:シャープ

(2) カシオの取組

 1970年に入ると、他の半導体メーカーも続々と電卓向けにLSIの大量生産を開始し、部品を購入し、組み立てればどのメーカーでも電卓を製造できるようになった。参入企業は50社を超え競争は激化していった。

 1972年8月、カシオは「カシオミニ」(6桁表示、1万2800円)を発売して業界に衝撃を与えた。値段、サイズともにそれまでの3分の1から4分の1という画期的な商品であった。

 カシオは、1950年ごろ(当時は樫尾製作所)から創業者である4兄弟の次男樫尾俊雄を中心に電動計算機の開発に取り組んでいた。電磁石を用いた電磁計算機の開発を皮切りに1957年には継電器(リレー)を用いて演算を行わせるリレー式計算機を開発し、商品化していた。その優れた技術から翌年には科学技術庁長官賞を受賞している。

 電卓元年ともいえる1964年の他社によるトランジスタ使用計算機の発売時、カシオは晴海のビジネスショーにリレー式計算機で参加している。しかし、社内では電子式の計算機への研究は進めていた。その成果は翌年1965年9月、小型トランジスタ計算機「カシオ001型」となって市場に送られた。価格は38万円、他社との差別化のためメモリを搭載した初の計算機であった。これ以降カシオは毎年新製品を発表していった。それらはICからLSI搭載へと進化し、価格も1971年のAS-8は3万8700円と6年前の初製品から10分の1までに低下させている。

カシオ001型(1965年)

カシオ001型(1965年)

画像提供:カシオ計算機

 「カシオミニ」は、「電卓がオフィスの合理化のための機械であるうちは市場規模は知れているが、一家に一台、さらに一人に一台になれば、巨大な市場が生まれる。計算の必要性は家庭内にもある。個人が気軽に買える価格である1万円程度の電卓を開発し、パーソナル需要を開拓する」とのコンセプトのもとに開発されたものであった。小型化低価格化のために表示桁数を従来の8桁から6桁に減少させている。この発売とともに展開された宣伝も大きな注目を集めた。「答え一発、カシオミニ」のコマーシャルソングは、それまでオフィスのものとの印象のあった電卓を個人のものとする時代を示すものとなった。発売10カ月で100万台を売り上げ、最終的な生産台数は1000万台を超える商品となった。

業界に衝撃を与えた「カシオミニ」(1972年)

業界に衝撃を与えた「カシオミニ」(1972年)

画像提供:カシオ計算機

(3)液晶表示電卓から現代まで

 超低価格ともいえる「カシオミニ」の登場によって電卓業界からは撤退する社が続出するところとなった。シャープにとっても新たな対応を迫られるところとなった。しかし、入力部分であるテンキーと数値を表示するディスプレイがある以上、小型化には限界があった。シャープは、小型化から薄型化へと目標を転換した。薄型化には、ディスプレイの薄型化、電源部の小型化などが求められる。そして、より少ない電力で機能させることが不可欠であった。そこで、ディスプレイには開発途上にあった液晶を採用することにし、LSIには低電力消費のC-MOS(Complementary Metal Oxide Semiconductor:相補型金属酸化膜半導体電界効果トランジスタ)を使うこととした。

 1973年、シャープは液晶の実用化に成功し、これを使用した電卓EL-805を発売した。同機は、1枚のガラス板に、液晶、C–MOS-LSI、配線など計算機の全機能を集約したCOS化ポケット電卓であり、単三電池一本で、100時間使える革新的なものであった。

 液晶を使用した薄型化の流れは、その後のシャープとカシオの競争の最大のポイントになった。1977年にシャープの電卓は厚さ5ミリを達成した。これに対してカシオは、1978年に厚さ3.9ミリ名刺サイズ電卓を発売する。この競争は1983年カシオが0.8ミリのクレジットカード型の電卓を登場させるまで続いた。電卓市場はシャープとカシオの両社が二大勢力となりマーケットシェアも両社で約80%を占めるようになっていった。電卓の新たな目標は、「関数電卓」「多機能電卓」「複合電卓」へと展開していった。そして、その技術は電子手帳や電子辞書等の新たな商品をも生み出すものとなっている。

 電卓の生産量は、1965年の4000台から1970年には一気に100万台にまで達する。その10年後の1980年には6000万台に、そして1985年にはピークの8600万台を記録した。生産額も、1965年に18億円であったものが、ピークの1980年には2020億円となっている。

 生産量に占める輸出比率は1977年には過去最高の88.5%を記録し、1984年には輸出量6600万台、輸出金額1636億7000万円に達している。

L-805(1973年)

L-805(1973年)

画像提供:シャープ


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