公益社団法人発明協会

高度経済成長期

CVCCエンジン

イノベーションに至る経緯

 米国では1940年代からスモッグが大きな社会問題の一つとなっていた。1952年にカリフォルニア工科大学のハーゲン・スミット教授が「このスモッグが酸化窒素と炭化水素の光化学反応による」ことを解明したことから、政府もその対策を行うことになった。

 1963年、連邦政府は全米を対象とした「大気清浄法」(Clean Air Act)を制定し、更に1965年には「自動車汚染防止法」を追加した。カリフォルニア州では、1966年から排出ガス規制を開始し、連邦政府も1966年3月20日付の官報によって、大気汚染防止の規則を公示した。

 このような状況の下で、1970年にそれまでの大気清浄法を大幅に改正したいわゆる「マスキー法」が採択された。この法律により自動車の排気ガスに含まれるCO、HC(炭化水素)量を1975年型車から1970年型車の10分の1とし、NOについては1976年型車から1971年型車の10分の1とすることとなった。

 我が国でも、1967年8月に「公害対策基本法」、翌年6月に「大気汚染防止法」が公布され、自動車の排出ガス中のCOを3%以下にすることが義務づけられた。1970年7月18日に東京・杉並区の立正高校グラウンドで女子生徒四十数人が呼吸困難、めまい、吐き気をもよおして倒れるという事件が発生し、この事件の有力な原因の一つとして「光化学スモッグ」が浮かび上がったことから、自動車の排出ガスに対する規制強化の要請は一段と強いものとなった。

 1972年10月、中央公害対策審議会は「自動車排出ガス許容限度長期設定方策について」と題する中間答申を公表し、米国のマスキー法が予定する1975年及び1976年の自動車排出ガス規制と同程度の規制を我が国においても行うべきであるとの結論を示した。当時の三木内閣は排気ガス規制の延期は無いことを明言し、自動車メーカによる規制値の達成努力は避けられないものとなっていた2

 ホンダは、将来の四輪自動車の米国への輸出を念頭に、1965年夏に大気汚染研究グループを編成し、米国の大気汚染規制に関する情報収集を開始していた。1966年6月、日本自動車工業会が米国における自動車公害等の調査団を派遣するにあたって、この研究グループのメンバーを参加させ、その報告を受けて、約30人のメンバーからなる「大気汚染対策研究室」を発足させた3

 様々な試行錯誤の結果、ホンダは「副燃焼室付エンジンによる希薄燃焼方式」によりこの課題が解決できると考え、ようやくその可能性を確認することに成功した(詳細は「4.発明技術の概要」参照)。

 1971年2月12日、社長の本田宗一郎は、東京、大手町の経団連会館で記者会見を行い、1975年排出ガス規制値を満足させるレシプロエンジン開発の目途が立ち、1973年から商品化することを世界に発表した。

 翌1972年4月、米国でEPAの公聴会が開かれた。すでに試験結果をEPAに提供していたホンダはこの公聴会には招聘されることはなかったが、公聴会では参加したほとんどのメーカーがマスキー法の基準達成が不可能なことを主張した。その中で注目されたのがロータリーエンジンにより規制値を乗り切ることが可能であると証言した東洋工業(現マツダ)であった。その9月、フォードは米陸軍と共同で開発した燃料噴射で触媒を使った無公害エンジンを発表した4

 同年10月11日、ホンダは国内外のジャーナリストにCVCCエンジンの全容を明らかにした。エンジンの燃料燃焼室に主燃焼室に加えて副燃焼室を接続したものであるが、それは海外を含む様々な技術を渉猟しての苦闘の結果見いだされたものであった。

 この発表後、米国EPAの要請を受けて、ホンダはミシガン州アンナーバーにあるEPAのエミッション・ラボに3台のCVCCエンジン搭載車を送った。そのうちの2台は15万マイル走行済車で、もう一台は5万マイル耐久テスト済車であった。当時、ホンダにはCVCCエンジンを搭載できる車体を持たなかったため、このテストでは日産自動車のサニーの車体が使用された。立会いテストの結果、CVCCエンジンはマスキー法1975年規制の合格第1号となった5 。続いて東洋工業、ダイムラーベンツもこの規制値をクリアした。

CIVIC CVCC (1973.12)

CIVIC CVCC (1973.12)

(画像提供:本田技研工業)

 1973年12月13日、CVCCエンジンを搭載した最初の乗用車シビックCVCCが日本で発売された。1975年8月、CVCCエンジンはシビックの全車種に搭載されるとともに、他の車種にも次々と搭載されるようになり、この頃のホンダ車はほとんどがCVCCエンジン搭載車となった。シビックはホンダのヒットモデルとなり、1979年8月には累積生産台数が200万台を超えた6

 ホンダの米国市場への四輪自動車の投入は、CVCCエンジンを搭載した「シビックCVCC」1975年モデルから本格化した。エンジンの試験に続く完成車によるマスキー法1975年規制適合認定のための試験は1974年11月にパスした。この際、EPAの審査官は排出ガスのレベル以上に、シビック・CVCCの燃費がきわめて優れていることを高く評価した7。当時、1973年10月6日、イスラエルとアラブ諸国との間で第四次中東戦争が勃発し、第一次石油危機が発生していた。ガソリンを大量に消費する大型自動車は敬遠されるようになり、世界は燃費の良い自動車を求めるようになっていた。

 シビック・CVCCは年を追うごとに燃費が向上し、1974年から1978年まで、4年連続で米国での燃費一位を獲得、「シビックの良さは燃費」ということを米国ユーザーに定着させた。

 1975年、ホンダの米国以上での販売台数は10万2389台となり、米国の輸入車ランキングの第4位を占めるものとなった。これは前年の販売台数の137.5%増という驚異的な伸びであった(表2「米国市場における外国自動車販売ランキング」参照)。

 2005年、シビック・CVCCは、日本が自動車生産高世界第2位を築いたものとして自動車の殿堂に登録された。

表2 米国市場における外国自動車販売ランキング

表2 米国市場における外国自動車販売ランキング

SOURCE: Business-Week, January 26, 1976, p.32.

 ホンダは、当初から公害対策技術は公開するという方針を表明していた。CVCCエンジン技術についても国内外を問わず、各自動車メーカの要請に対応した。早くからCVCCエンジン技術を評価していたトヨタ自動車とは、1972年12月13日に技術供与に関する契約の調印が実現した。続いて、1973年7月にフォード、同年9月にクライスラー、いすゞ自動車の各社にも技術供与が行われた。GMは1975年モデルのために40万ユニットのCVCCエンジンを調達する意思を示したが、当時のホンダの生産能力等により実現しなかった8

 当初のCVCCエンジンの開発は、米国マスキー法の1973年規制と、我が国の1975年度規制、1976年度規制に対応させたものであったが、更にその後、1978年規制に対応するために、CVCCエンジンのトーチノズル数を増すことや、EGR(排気再循環)や触媒装置を付加して燃料経済性を向上させるなどの改良が行われた。

 現在では、三元触媒装置や電子式燃料噴射装置などの進化により、CVCCシステムの必要はなくなり、CVCCエンジン搭載車は1989年のモデルチェンジを最後に市場から姿を消した。しかし、CVCCエンジンの成功は、三元触媒技術等の実現時期を早める結果となっただけでなく9、現在も追求されている希薄燃焼方式の考え方がいち早く採り入れたものであり、その思想は現在もLEV(低公害車)エンジンに脈々と受け継がれている。


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